明治初期、廃藩置県にともなって全国の検地と人口調査が行われた。これは地価に基づく定額金納制度と徴兵による常備軍を確立するためであった。東北地方において、廃墟となった村を調査した役人は、大木の根本に埋められた大量の人骨と牛の頭らしき動物の骨を発見した。調査台帳には、特記事項としてその数を記し、検地を終えるとそこから一番近い南村へと調査を移した。
その南村での調査を終え、村外れにある宿に泊まった役人は、この村に来る前に出くわした不可解な骨のことを夕食の席で宿の主人に尋ねた。宿の主人は、「関係あるかどうかは分からないが…」と前置きをした上で次の話を語ったという。
天保3年より、数年にわたり大飢饉が襲った。これは俗に言われる「天保の大飢饉」である。当時の農書によれば、「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体を野犬や鳥が食いちぎる。親子兄弟においては、情けもなく食物を奪い合い、畜生道にも劣る」といった悲惨な状況であった。